
Amazing Budsが終演した。
今更かもしれないが、とても大切なことを思い出した本番だったので、演奏した曲目のことを軸に思い出話をつらつらと書いていこうと思う。
ドナトーニという作曲家は、他に類を見ないほどに様々な楽曲編成のために曲を残した作曲家の一人だと思う。
今回演奏したらRasch IIも、ピアノ、4本のサクソフォン、そしてパーカッションという編成だった。他に(しっかり探したわけでもないが)今までサクソフォンを勉強してきた十数年間でそのような編成の曲というのは知らない。ありそうだけど。
また同時に、これは自分で楽曲を演奏してみた感想でしかないが、本当に能力の高い作曲家だったのだろうとも思う。それは、サクソフォン4本の書法は完全に古典的なものであるにも関わらず、演奏により出現する響きが完全に新しいという所で証明できる。
今やコンピューター上での作曲ソフトの活躍により、このような譜面を書く意味が薄れてしまったが(楽譜は難しくても、特殊奏法などが無いためにパソコンのMIDI上で完全な再現ができてしまうから)、それでもラッシュ2は1995年の作品だ。不確定性の音楽というものが世に広まっている中で、クリエイティブな楽曲編成と、休符装飾といったスキマのスキマで、人間にしか出来ない音楽を作り出してしまった。
とんでもない楽曲だと思う。
実際の演奏はメチャクチャ難しかった。純粋に自分が楽譜通りに吹いているつもりx6人になっても、全然合わないのだ。実際、確かにみんな楽譜通り吹いているのだが…
ここが音楽の変なところというか、面白いところなのだが、「合わせる」ということはつくづく一元的な要素だけでは終わらない話なのだなと感じる。
ニュアンスやバランスはもちろん、楽譜に書けないような間やコミュニケーションの妙の存在によって、初めて成り立つもので、これはやはりどんなシビアな現代音楽でも、ロマン派の美しい楽曲でも同じだと感じた。
こんな経験から、冒頭の話で大切なことを思い出した、って所に行くのだが、往々にしてうまくいく演奏ってやっぱり、楽曲が好きじゃないと成り立たないなと感じる。
好きであるかどうか、という問題は、純粋なファーストコンタクトの問題もあるかもしれないが、それよりも好きでいられる努力が出来るか、好きになろうと思う気持ちを持つことが出来るか、というところからの話だ。
特に現代日本人は、我々クラシックの音楽家であっても現代音楽に対する理解に苦難を強いられている人々も多いように思う。
私個人の意見として、その人たちを非難しようとは思わない、人の食べ物に好き嫌いがたくさんあるのは当然の話だし、自分の好きなものを相手に押し付けようとするなど言語道断だとも思っている。
だから、どうだこうだとかいうつもりは本当にないのだが、でも、最低限頑張って楽譜読むとか、合わせで諦めないとか、コミュニケーションをとり続ける努力をするとか、そういった必要最低限の繰り返しが、楽曲への愛を生むこともると思った。
私自身恥ずかしい話、勉強不足で曲の魅力を理解するまでに時間がかかることもある。
経験上、残念ながら演奏した曲に対して気に入り切ることが出来ずにお別れした曲もある。
なんなら、今回のラッシュ2に関しても、まだまだ構造理解と俯瞰的な内容の理解で精一杯だったとも思う。
だが、なんとなくだが聴衆とのコミュニケーションはかなり面白く取ることが出来たのではないかと感じる。
それは、おそらくだが我々が楽譜の音符を演奏することに終始せずに、しっかりと合わせの中でこの意味深長な音楽の中から何を表現できるか、何を聴衆と共有できるか、ということを探すことを諦めなかったからだと感じている。
手前味噌かもしれないが、今回のラッシュ2の演奏は、聴衆と演奏者が共に未知の領域を探検するような経験だった。本当に面白い時間だったなと感じている。良い経験ができた。
また機会を見つけて演奏したいと思う。そして、次回も書くと思うがやはり新らしいレパートリーを演奏することに、常に積極的でありたいと深く改めて思った回だった。
共演した岩浅さん、千葉さん、マッシュ、もっぴ、よっぴに深く感謝したい。
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