以前一度ご連絡をいただき、SNSでたびたび関わりを持たせていただいているピアニスト、横山博さんのリサイタルへお邪魔した。
ケージとフェルドマンを中心としたプログラムのコンサート、副題は「ジョン・ケージを探せ!」。
演奏者すら置いてきぼりにされそうな楽曲の数々をfeelした1時間半の公演であった。
歳関係で言うと私の方が完全に若輩者で、こんなブログに偉そうに感想をつらつら書けるような身分でもない(し、おこがましい極まりない)のだが、私個人の感想として、音楽に対して思ったことがあるので記録として書いていく。いうまでもなくリサイタルの内容は素晴らしかった。磨き抜かれた数少ない音の一つ一つのタッチは、ドキドキと重圧の両方を含んでいた。
最近、私は生徒さんに対し「美味しい音楽史」というレッスンを展開している。
楽器を吹くことが難しい環境の生徒さんに、実技の部分だけではなく音楽の理論や知識に関する部分を共有するというもので、そのレッスンの準備のために、改めて自分自身が持っている音楽の歴史に関する知識を総括する機会があった。
その中でも、現代作品においては(私がサクソフォン奏者であるということも相まって)非常に幅の広い紹介をすることになるわけなのだが、こと、ジョン・ケージという存在の特異性に関しては口を塞がずにいられないものを感じる。
彼の有名な作品、そして今回の公演で演奏された4分33秒という作品は、演奏者がピアノ椅子に座り、ストップウォッチを用いて4分と33秒の間、静寂の音楽を作り出す、という趣のものである。
この作品が意味するところは、(意味の有無に関わらず)
・音楽という、音があってこそという概念を覆したこと
・どのようなアクションが起こされるかわからない「偶然性」の存在を示唆していること
が主に挙げられると思う。
これらの示唆によって、音楽というものの概念が覆されていくことになった。
そして、4分33秒の作品を聴きながらの私の感想は、これまた非常に面白いことを(手前味噌ながら)自分で思いついたのだ。ぜひこの記事を読んでしまった人が、次回以降4分33秒に出会ったらやってみてほしい。
この楽曲は、「観客こそ」音楽作りに参加できるのではないか。
服の擦れる音であるとか、椅子の軋む音などではなく、
観客が自ら「なんだこの音楽は」と声を上げるのではなく、
観客の方がむしろ、音楽的なことを始めたらどうなるのだろう、というふうに思ったのだ。
それを思いついてしまってから、私は観客席でじっと座っていることがこれほどもどかしいのかと思ってしまった。
これが友人のリサイタルなら一曲歌っていたかもしれない。笑 ないと思うけど。
でも、それが許される数少ない楽曲なのではないだろうか。
聴衆という立場に立った時に、破壊衝動的に、人が立っているステージをめちゃくちゃにしてみたい、という妄想をする という話をされたことがある。
全くリアリティがないので、完全に共感し切るまでは行かなかった(し、人が頑張って作ったステージをめちゃくちゃにするのは当然倫理的にやめといた方がいいと思う)わけだが、このような「偶然性」をある程度装えば、実はステージ外というものは結構な無法地帯として存在できてしまうのではないか、と思ったわけだ。
この気づきが何を生み出すのかは全くわからないが、(繰り返し手前味噌だが)こんなこと思っちゃったので記事にしておくしかないな、と思った次第である。
他の曲の感想も書いていきたい。ほぼ全部初めて聴いた曲だった。
ケージ:ある風景の中で
ちゃんと覚えていないが、D -mollの自然短音階(と判定するのが適当なのかはわからない)が支配的な響きを持っているのに、ただ鍵盤の一箇所だけがBbではなくHになっている、という仕掛けのある楽曲。(という印象の曲)
同音連打がある中で、「大は小を兼ねる」の響きが出る部分が興味深く、また豊洲の会場の雰囲気に相まってかなり効果的な演奏の幕開けだったように思う。
フェルドマン:2つのインターミッション
この楽曲は様式的に偶然性の音楽なのだろうか?プログラムにはインターミッション6番の楽譜が掲載されていて(ちなみにプログラムに楽譜が(部分的でも)載っているのはアツすぎる)、その様式の前身なのだと推測している。1番と2番には明確なコンセプトの違いが見られ、同じような楽譜の書き方だとしても違いが出てくるのは面白いな、と思った。これで普通の楽譜とかだったら恥ずかしいな
グラス:映画「めぐりあう時間たち」より
フィリップ・グラスの作品が聴けると思っていなかった。まあしっかりグラスの作品だった(私はそれほどグラスの作品は惹かれない、ぶっちゃけ)が、これほどミニマルな楽曲が続いている中だと、彼のわかりやすい和声進行の楽曲が非常に、ある種ありがたく思えてくるのだから不思議だ。
フェルドマン:インターミッション第6番
前述した通り楽譜がプログラムに掲載されており、なんとなくそれを開演前に見ていたために、ちょっと面白い聴き方ができた。この楽曲は完全に偶然性の音楽であった。特筆するべきは、この楽曲の演奏に際して「最小限の打鍵」で演奏することが求められている。というか、この楽曲、ピアノ1台でも2台でも演奏できるのか。頭がめちゃくちゃ柔らかくなりそうな楽曲だ。
休憩を挟んで、
坂本龍一:戦場のメリークリスマス
ケージ:4分33秒
ケージ:0分00秒
ケージの0分00秒は初演の際はチェスの対決をそのまま5時間垂れ流すという、たいそう「飛んだ」パフォーマンスがなされたそうだが、今回は横山さんがTwitterをしていた。いいね と思いました。(やかましい)
フェルドマン:マレの宮殿
普段全く聴く機会のない音楽だが、これは聴き慣れて知っていたらかなり面白い作品であったと思う。めちゃくちゃ楽しんで聴いた(が、なんかあからさまに喋ってる観客おって嫌だった。)
時勢のことがあるので、流石に面会は遠慮したが、お会いしてお話ししたことがないだけに、ぜひ一度ご挨拶できたら嬉しく思った。
はっきり言って、この時代にこのような、特に偶然性の音楽というジャンルはクラシック音楽の中でも相当特殊な「再現」の音楽なので、そのようなコンセプトが全面に出ているリサイタルを行う演奏者は非常に貴重であると思う。
このようなコンセプトを強く持ち続けて活動することも並大抵の苦労では出来ないと思ったし、
しかし会場には非常に多くの聴衆がおり、そして最後まで耳を熱心に傾けている人々が多くいた。
本当に現代音楽が好きな人、というのがたくさんいるのか、それとも分からないけれど聴いているのか、そのあたりはもちろん私には判別が付かないが、否つける必要もないと思った。
1人の演奏者として、対等な目線で作曲家の残した作品に挑み、そして対等な目線で聴衆へ共有を試みる。
その行動に作曲家も聴衆もきっと演奏者を信頼してくれると私は信じていたいし、その願いというものがどこかで具現化されていたようなコンサートだったと思う。非常に難しいテーマの音楽会であったが、行くことができてよかった。
私もあと2週間ほどでコンサートである。気合を入れ直して頑張っていきたい。
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