某日、某所にて生徒たちを指揮し演奏するイベントだった。
普段は守秘義務が尊ばれる昨今なのであまり詳細は書かないが(というかそもそも記事にするんじゃないよ)日も場所も、どの生徒なのかも隠すのでひとまず勘弁頂きたい。
閑話休題、これは研究発表会のような催しで、他団体の状況などを知る良い機会でもあり、私としては非常に貴重な経験の1つということになる。
色々と思うところのある本番だった。
自分自身がどのような演奏を尊び、どのような演奏を繰り広げて欲しいのか、その想いがむき出しになった場所だった。
それは自らの演奏における大きな課題にもリンクするような気がして、なんとも今このブログを書きながら複雑な想いになっている。
私の問題であるので、生徒たちにはもちろん話していないが…。
私は常々 音楽を演奏するために「音楽的であること」を重視する。
それは、音楽というものを特有の表現手段として考えた時に、音楽だけがそれをしうる事が出来るからだ。(哲学的だね)
音色や技術というものがそれに伴い必要になる訳だが、少なくとも私はそれを最優先にはしない。あくまで感性と表現意欲というものを最初に要求する。「こういった音楽的な演奏のためにこういう技術や音が必要だよね、じゃあこういう練習をしていこうか」という考えである。
教養のない音楽は存在しない。たびたび私が口にする言葉である。
もちろんこんな素晴らしい言葉は受け売りなので、私がドヤ顔で言えるものではないのだが、本当にそう思う。
ここでいう教養というのは単なる知識だけの問題では無い。
またこの辺の話はまた今度。
普段は守秘義務が尊ばれる昨今なのであまり詳細は書かないが(というかそもそも記事にするんじゃないよ)日も場所も、どの生徒なのかも隠すのでひとまず勘弁頂きたい。
閑話休題、これは研究発表会のような催しで、他団体の状況などを知る良い機会でもあり、私としては非常に貴重な経験の1つということになる。
色々と思うところのある本番だった。
自分自身がどのような演奏を尊び、どのような演奏を繰り広げて欲しいのか、その想いがむき出しになった場所だった。
それは自らの演奏における大きな課題にもリンクするような気がして、なんとも今このブログを書きながら複雑な想いになっている。
私の問題であるので、生徒たちにはもちろん話していないが…。
私は常々 音楽を演奏するために「音楽的であること」を重視する。
それは、音楽というものを特有の表現手段として考えた時に、音楽だけがそれをしうる事が出来るからだ。(哲学的だね)
音色や技術というものがそれに伴い必要になる訳だが、少なくとも私はそれを最優先にはしない。あくまで感性と表現意欲というものを最初に要求する。「こういった音楽的な演奏のためにこういう技術や音が必要だよね、じゃあこういう練習をしていこうか」という考えである。
教養のない音楽は存在しない。たびたび私が口にする言葉である。
もちろんこんな素晴らしい言葉は受け売りなので、私がドヤ顔で言えるものではないのだが、本当にそう思う。
ここでいう教養というのは単なる知識だけの問題では無い。
またこの辺の話はまた今度。